重水素ってなんだ? 有用性と産業・科学的応用 第2話:重水素標識化合物は簡単に作れるのか? 〜重水中で生物は生存できるか?〜 2017/10/25

宇宙の起源 〜ビッグバン理論〜

第1話では「水素と重水素の違い」や「重水素の起源・安定性・物性」などについて説明しました。さて、有機化合物を構成している水素原子を重水素原子で置き換えた化合物重水素標識化合物といいます)は、基本的には標識していない元の分子と同じ様な挙動を示します。しかし、分子の質量が重水素の数だけ大きくなり、炭素や酸素と重水素との結合が水素の結合よりも強く(安定に)なるので、この僅かな違いに注目して、様々な活用方法が考案されています。

例えば、生体に投与したごく少量の医薬品の血中濃度や尿中排泄量、食品中の残留農薬や内分泌撹乱物質(環境ホルモン)濃度の測定などの場合には、血液や食物(試料)を機器分析装置で分析できるようにするために、試料に含まれる不純物を取り除く過程(抽出や精製工程)を経る事になります。しかし、対象となる物質が微量しか存在しないので、抽出や精製の段階でのロスなどが大きく影響してしまい、正確な含有量を測定できないケースが多くなります。

これを解決するために、測定対象化合物(下図の試料1青のボール)を重水素標識した化合物(下図の試料2: 紫のボール)をサンプル中に添加することで、抽出や精製段階での「挙動」が重水素で標識した化合物もしていない化合物もほぼ同じため、ロスの状況などを正確に把握し補正することができます。最後に分子量の違いを区別できる質量分析装置を利用して試料(1)と試料(2)の比と量を比較すれば、元の資料に含まれている試料(1)の濃度を正確に分析することができるのです。

このような目的で添加する物質を「サロゲート化合物(マーカーあるいは内部標準物質)」と呼び、特に測定対象化合物(1)を重水素標識した化合物(2)が適しているのです。このように測定対象化合物と重水素標識化合物の「挙動類似性」と「化学的・物理的性質の僅かな違い」、つまり「同位体効果」を巧みに利用した微量分析法が、医薬品の分野や環境科学、さらには製品の純度測定などで利用されています。

測定対象化合物を重水素で標識する反応や技術に関しては、岐阜薬科大学 薬品化学研究室を含めて世界中で研究されていますが、まだまだ不十分であり、自由自在に標識できる段階に達していないのが現状です。従って、重水素標識化合物が手に入らないため、微量分析の際に他の類似した物質を内部標準化合物として代用する必要が生じるなど、解決すべき問題が沢山残っています。

それではどのようにして重水素標識をするのでしょうか?先ず、重水素標識の際の重水素は、第一話で説明したように、地球上に無尽蔵に存在する水に約150 ppm含まれている重水D2O)が起源です。純粋な重水中では高等生物は生存できませんが、単細胞の大腸菌やイースト菌は、上手く培養すれば生存・増殖させることができます。大腸菌の培地に重水素で標識したブドウ糖を加えて(いわゆるエサになります)増殖させ、重水素化ブドウ糖や重水を重水素源として、菌体内で重水素標識された代謝物や酵素を合成する研究が進められています。「[!

[CDATA[b>重水素の導入率(重水素化率)を高くする」、「様々なたんぱく質や代謝物の重水素素標識を可能とする」、「目的の部位に選択的に重水素を導入する」、「コストを下げる」など、まだまだ改善していくべき問題はたくさんありますが、特に重水素化されたタンパク質などは、重水素で標識されていないものと比較すると、核磁気共鳴(NMR)スペクトルや、中性子を利用した構造解析において、その精度や効率を飛躍的に改善する事ができるため注目されており、核磁気共鳴及び中性子構造への応用研究がまさに現在進行形で盛んに実施されています。

なお、純粋な(ほぼ100%の)重水中で大腸菌を培養すると、細胞内の水も重水D2O)に置き換わるため、酵素反応を中心とした細胞の代謝活動が重水中で行われることとなります。この場合、O-Dの結合がO-Hよりも安定で反応性が低いことなどが原因となって、菌の活動(増殖・細胞周期)が遅くなります。この分野の研究をされておられる先生方のお話では、H2O)を5〜10%程度でも加えれば、細胞増殖速度はかなり回復するそうです。重水D2O)90%とH2O)10%を混ぜた溶液中では、「不均化(重水のDと水のHができる限り均等になる様に交換するのです)」が起こって、基本的にD-O-Dが80%とD-O-Hが20%の混合物になっています。この際、大腸菌細胞中の酵素反応は、最も反応しやすいO-H結合部分で進行するようになり、O-H結合が存在しない100%D-O-D中の反応性と比較すると、格段に加速されるものと考えると合理的です。この現象は化学反応においても確認されています。

私たちの研究室では金属触媒を使って、重水のDを有機化合物のHと交換して(H-D交換反応)重水素標識する方法を開発していますが(岐阜薬科大学薬品化学研究室ホームページ; 研究テーマ欄参照、水が混入して重水の濃度が低下すると、重水素化の効率が低下します。最終的には、50%まで純度が下がると(不均化してほぼD-O-Hの状態です)O-H結合部分での反応の優先により、ほとんど全ての反応が「水素原子と水素原子の交換」になってしまうため、重水素化の効率はほぼゼロとなり格段に低下します。

少し話がそれますが、最近、天然水中の重水含量(僅か150 ppmですが)を25〜100 ppm程度まで減少させた水が500 mLのペットボトルに詰められて「健康に良い」として高値で販売されています。人間の体は、年齢にもよりますが重量比で約50〜70%が水でできています。体重60 kgの人の場合60%が水であれば36 kgは水なのです。また、第一話で示しましたが、地球上に存在している重水素の多くは、約137億年前といわれているビッグバン直後に作られたものなので、地球上の生物の体は、押しなべて150 ppm程度の濃度の重水素で構成されているのです。これは水だけではなくて、たんぱく質、アミノ酸、糖質などすべてに普遍的なことです。

また水中ではD-O-Dの状態で存在しているのではなくD-O-Hに不均化しているので、体内の水には約300 ppm(0.03%)のD-O-Hが含有される計算になりますが、残りの99.97%はH-O-Hで占められいます。当然生体内の反応は、反応性が高いO-H結合部分で好んで進行するので、O-Dが約300 ppm共存している事は全く無視しても問題ない(生体内反応には全く影響しない)計算になります。

さらに、36 kg(36,000g)の水(約150 ppmの重水が含有されています)で構成されている体重60 kgの人間の体内に、わずかペットボトル1本分、すなわち、重水含有量が100 ppm程度の水が500 g程度投与されても、生体内重水素含有量が変化することはありません。仮に、これを毎日継続して、何年もかけて体内の重水素含有量を例えば100 ppm程度まで低下させられたとしても、上述のように、もともと絶対的なO-D含有量が少なくて酵素反応などへの影響が無い(酵素や生体成分が周囲に大量に存在するO-Hと優先的に反応する)ことから、化学的・物理的なわずかな違いで発現する重水素の「生体内同位体効果」に影響を及ぼすことは考えられません。もちろん、その効果を否定しているわけではありません。効果があるとすれば、私には理解できないところですが、生体内反応に関連した「同位体効果」ではない場所でなんらかの作用が発現しているということなのでしょう。

さて本題に戻りましょう。重水素標識化合物を産業や科学の分野で有効に利用しようとした場合に、「重水素標識化合物をどのように作る(合成する)か」ですが、上述した大腸菌などの細菌を使う方法以外に、化学合成技術を使った方法も盛んに研究されています。化学的方法は、大きく2つの方法に分けることができます。

一つ目は「重水や重水素標識されたメタノール(重メタノール)などの小分子から、目的とする重水素標識化合物を人工的に何工程もかけて化学合成する方法」で、時間・コスト・手間がかかります。これが、重水素で標識された目的化合物がなかなか手に入らない、あるいは手に入っても高価なため使用に制限がかかってきた理由の一つです。

これに対して、下図のように「目的化合物の水素原子を直接重水素原子に置き換えてしまう方法(H-D交換反応)」があります。この図には直鎖状のペンタンという化合物の重水素化の例を示してあります。矢印左側の水素原子を12個持ったペンタン−H12を矢印右側の重水素原子を12個持ったペンタン−D12に直接変換する方法です。かつては50気圧程度の圧力をかけて、250 ℃に加熱しないと反応は進行しませんでしたが、現在では新しい触媒反応が開発され、1気圧、120 ℃でほぼ完全な重水素化ができるようになりました(岐阜薬科大学 薬品化学研究室の研究成果; Angew. Chem. Int. Ed. 2008, 47, 5394-5397とRSC Adv. 2015, 5, 13727 - 13732)。反応条件が穏やかになれば、「特殊な耐圧・耐熱容器を使用する必要が無い」、「熱や圧力により分解を受けやすい目的化合物も直接重水素化できる」、「反応のオペレーションが容易」などの様々なメリットが生じます。

現時点では、まだまだ、好きなところに好きな数の重水素を導入するといった領域には至っていないので、さらにこの分野の研究を活発に展開して、自在に重水素を導入する反応手法を開発していく必要があります。

次回「第3話」では、今回の第2話で触れた「サロゲート化合物としての利用」以外の重水素標識化合物の産業的・科学的有効活用法について紹介するとともに、現在活発に動き始めた、重水素活用技術推進を目指す新しいコミュニティーの立ち上げに向けた取り組みについて概説します。

PR情報

記事一覧

なぜ今ごろ「水銀に関する水俣条約」(1)

「水俣病」は日本で発生した最も重篤で悲惨な公害病です。今大学1年生に公害について講義をしていますが、水俣病に関して知っていることを尋ねると、名称と原…

2017/11/14

重水素ってなんだ? 有用性と産業・科学的応用 第3話:重水素標識化合物の産業的・科学的有効活用法

第2話では、重水素標識化合物の産業的・科学的有効活用法の一つとして「同位体効果」を利用した「微量分析法における内部標準物質(サロゲート化合物)として…

2017/11/2

重水素ってなんだ? 有用性と産業・科学的応用 第2話:重水素標識化合物は簡単に作れるのか? 〜重水中で生物は生存できるか?〜

第1話では「水素と重水素の違い」や「重水素の起源・安定性・物性」などについて説明しました。さて、有機化合物を構成している水素原子を重水素原子で置き換え…

2017/10/25

重水素ってなんだ? 有用性と産業・科学的応用  第1話:水素と重水素 〜重い水素の正体〜

水素ガス(H2)は最も軽い気体で(比重換算で空気の約1/15)水素原子(H)が二つ結合した「分子」として存在しています。水素原子は「原子番号が1」の最も小さ…

2017/10/11

自然と正しくつきあうために 有毒キノコについて(その3)

前回2回にわたって毒キノコについて記してきました。今回はその最後として少し変わった毒キノコについて紹介したいと思います。毒キノコの中毒症状は胃腸障害…

2017/9/28

自然と正しくつきあうために 有毒キノコについて(その2)

前回、毒キノコ中毒の概観について記しましたが、実例を新聞記事から見てみましょう。古い事例ですが典型的な事件ですので紹介します。2008年11月2日毎日新…

2017/9/27

自然と正しくつきあうために 有毒キノコについて(その1)

実りの秋を迎え、キノコ類は食卓を彩る食材として欠かすことのできないものです。それと同時に日本各地でキノコ中毒の報道が目につくようになります。以前、植…

2017/9/26

お年を召されることと睡眠薬の話

さて、睡眠薬には、入院したとき、いつもと環境が違うので入院期間だけちょっと処方される睡眠薬があります。 寝付きをよくする薬といわれている超短時間作用…

2017/8/30

親父と睡眠薬の話(笑い事ではありません)

もう10年くらい前なのですが、岡山県の田舎に帰省したとき、山あいの駅に到着、夜10時をまわっていましたから、携帯電話で実家に連絡して、父に麓の駅まで迎え…

2017/8/20

ステロイド軟膏の間違った塗り方

今日はステロイド軟膏の話をします。 帰省したときに私の母が自慢したのです。「光浩(私の名前)や、最近病院で良いこと聞いたわ」「今まで、手の指が赤くなっ…

2017/8/10

プロフィール

19

達人に質問をする

本学は、美しい金華山と長良川などの自然に恵まれ、また歴史と文化の薫漂う岐阜市の北部に位置し、80有余年に及ぶ歴史の中で、建学の精神である「強く、正しく、明朗に」をモットーに、「人と環境に優しいグリーン・ファーマシー」を基本理念とした薬学教育を通じ、安心で安全な医療に貢献できる薬剤師や、人と環境にやさしい方法で薬を創ることのできる研究者や技術者を養成しています。

地域に生き、世界に伸びる大学として、今までの実績を基にさらに発展し続ける努力を重ねております。

関連リンク

  • 会員登録
  • ログイン
今日の天気(05:00発表)
名古屋
雨のち曇り
10 ℃/--
東京
曇り時々雨
11 ℃/--
大阪
雨のち曇り
12 ℃/--
  • 東名, 名神, 東名阪道, 名古屋高速で渋滞情報あり。
  • 登録路線が未設定です。
  • 公式 Twitter はこちら
  • 公式 Facebook はこちら
クラウドファンディング 夢チューブ 中日新聞
東京新聞 電子版
中日販売サポート
東海テレビ 庄野アナと 新聞を音読してみよう!
平和の俳句
中日防災ナビ
こどもウイークリーのこーなー
過去の企画・特集