重水素ってなんだ? 有用性と産業・科学的応用 第3話:重水素標識化合物の産業的・科学的有効活用法 2017/11/2

第2話では、重水素標識化合物の産業的・科学的有効活用法の一つとして「同位体効果」を利用した「微量分析法における内部標準物質(サロゲート化合物)としての活用例」を紹介しました。他にも、広い分野での活用法が活発に研究されていますが、今回はその中で4種類の事例を選んでを紹介します。

一つ目は、マーカー(目印)としての活用です。例えば工業製品、ファッション製品や著作権のある製品の中には、付加価値が高いなどの理由で違法(不正)コピーが出回ることがあります。このような違法コピーを検出する目的で、製品のプラスチック(高分子、ポリマー)や繊維の一部分を重水素標識(マーク、タグ)しておけば、分子量の違いを区別できる質量分析装置を利用してコピーを正確に見破ることができます。この場合重水素標識ポリマーの重水素含有率は低くても構いません。天然の重水素含有量である150 ppmよりも多いことが判れば、マーカーやタグとしての役割は十分に果たすことができるのです。

ところで「不正軽油」に関する報道をご覧になったことがあると思います。軽油(ディーゼルエンジンを搭載したクルマの燃料です)には「軽油引取税」という税金が課されますが、灯油やA重油にはこの税金が課されることはありません。これらは全て原油を蒸留・精製して作られており、主成分はいずれも炭化水素の混合物です。

一方、灯油やA重油を混和した軽油を燃料としてもディーゼルエンジンは動くので(不完全燃焼などにより排気ガスが悪化したり、エンジンがダメージを受ける可能性も指摘されています)、灯油やA重油を混和した粗悪な軽油を「軽油」と偽って販売すれば脱税であり、不正な利益をもたらすこととなるのです。これを防ぐために灯油やA重油には約1 ppmのクマリンという物質が識別剤(マーカー)として添加されています。クマリンは軽油には添加されていないので、分光蛍光光度計やガスクロマトグラフで検出すれば、不正軽油を識別することができます。

一見すると、クマリンをマーカーとしてうまくコントロールしているように思えます。しかし、クマリン入りの灯油やA重油を濃硫酸で処理すると、分解したクマリンを硫酸層に抽出(除去)されて、クマリンが含まれない灯油やA重油が不正製造されてしまうのです。つまり、クマリンの構造が(下図)灯油やA重油の主たる構成成分である炭化水素の構造と異なるため、分離・除去されてしまうのです。そこまでして「脱税をするのか」と思いますが、脱税した分の利益が上がれば不正行為に走る人がいるのも事実です。

クマリンや油に少量溶けている硫黄分などを吸収限界近くまで濃硫酸に吸収させると、タール状の酸性度の高い硫酸ピッチになります。不正軽油を製造した後に生成する硫酸ピッチは、当然正規の産業廃棄物処理などされることなく不法投棄されて環境を破壊している現状があります。脱税だけにとどまらず環境汚染の問題も深刻であり、それぞれの自治体が対策をしています(例えば岐阜県の不正軽油110番)。

さて、ここで重水素標識化合物の出番です。灯油やA重油は炭化水素の混合物ですが、軽油を含めて共通の構成成分となる炭素数12〜20の炭化水素を重水素で標識して、微量添加しておけば、灯油やA重油の成分そのものですから、化学的に分離・精製することはほぼ不可能になります。その上で、「分子量の違いを区別できる質量分析装置を利用して不正軽油を摘発すれば、脱税はもちろん、硫酸ピッチの問題も一度に解決することができます。この際に使用する重水素標識炭化水素の重水素化率も高い必要がないので、コスト的にも安価に製造できるのです(ただし、クマリンの添加よりはコスト高になるかもしれませんが)。

第2話の最後でも説明しましたが、重水素標識炭化水素は「触媒」を使って反応すれば、重水を重水素源として簡単に製造することができます(下図)。

10年ほど前に炭化水素化合物の簡便な重水素標識反応(Angew. Chem. Int. Ed. 2008, 47, 5394-5397、さらに最近の成果RSC Adv. 2015, 5, 13727-13732)を開発した際に、試薬会社と共同で重水素マーカーの提案をしたことがありますが、未だにクマリンマーカーが使用され続けており、不正軽油・硫酸ピッチの不法投棄の報道が後を絶たない、「いたちごっこ」の現状が続いているのです。

二つ目の活用法を説明します。C-D結合はC-H結合よりも結合解離エネルギー(結合を切断するために必要なエネルギー)が大きく、安定で切断されにくいといった特徴があります(同位体効果)。医薬品の多くは、肝臓で酸化などの化学反応を受けて代謝されますが、その際C-H結合の切断を伴います。医薬品を構成する一部の水素、特に代謝に関連した化学反応部位近傍の水素重水素に置き換えた「重水素標識医薬品(ヘビードラッグ)」では、同位体効果により代謝、排泄などに関わる生体内の化学反応(酵素反応)が遅延するため、生体内での代謝分解作用に対する抵抗性が発現して、薬効持続性や安全性が向上する場合がある事が判ってきています(Nature 2009, 458, 259, big interest in heavy drugs)。このような効果を上手く利用すれば、医薬品の投与量や服用回数を少なくすることができるのです。

三つ目は、インターネットの大容量通信でよく知られている「デジタル通信」に欠かすことのできない「光ファイバー」への応用です。

光ファイバーとして利用されている材料が光を吸収すると通信効率が低下してしまうので、透明度の高い「石英ガラス」や「プラスチック(合成樹脂、ポリマー、高分子化合物)」が使用されています。特にプラスチック光ファイバーの場合は分子内にC-H結合を持つ高分子化合物を素材とするため、そのC-H伸縮振動による光吸収損失を排除する必要があります。分子内のC-H結合をC-FやC-Dに置き換えてしまえば、振動吸収領域を長波長側にシフトできるので損失値を下げることができます(小池, NEW GLASS 2010, 25, 20-23 http://www.newglass.jp/mag/TITL/maghtml/96-pdf/+96-p020.PDF)。

また、重水素化ポリマーは光学材料としてだけでなく、プラスチックの耐光性向上など(紫外線などによるプラスチックの劣化防止など: 安倍, 宮沢,川西, 高分子論文集 2011, 68, 664-667;https://www.jstage.jst.go.jp/article/koron/68/9/68_9_664/_pdf)、素材・材料分野での応用も期待されます。

四つ目ですが、中性子線(電荷を持たない中性子の束)は物質を構成する原子の原子核と相互作用して散乱や透過するため、これを利用して物質の構造や内部を解析することができます。

日本原子力研究開発機構と高エネルギー加速器研究機構は、共同で茨城県東海村に「大強度陽子加速器施設(Japan Proton Accelerator Research Complex; J-PARC)」を設置しており、この大型加速器により生成される中性子線は環境・エネルギー・電子・磁気デバイスなどに関わる物質科学、さらには、タンパク質構造解析や機能解明などの生命科学分野の先導的研究に利用されています

特に中性子線を利用した解析では、水素と重水素のような同じ元素で質量数が異なる同位体の原子核を区別できることが特長であり、重水素標識した試料の場合には、その部分のみを選択的に観測することが可能です。

例えば、重水素標識した試料の測定画像から、重水素標識していない試料の画像を差し引くことで、水素の情報だけを残すこともできます(同位体コントラスト)。このように、重水素標識技術は中性子線による構造・機能解析に対する非常に強力な手法であるため、「重水素の有効活用」をキーワードとした学際領域が特に注目されるようになってきました。

最近では、重水素の有効活用技術の開発研究に携わる研究者・技術者のコミュニティーの立ち上げに向けた機運が高まっています。2017年10月19日〜20日に東海村で開催されたJ-PARCワークショップでも、「重水素の有効活用技術の開発研究に携わる研究者・技術者のコミュニティーが立ち上がることは、J-PARCを中心とする研究施設にも極めて重要であり、この分野の関係者の連携が十分に期待できることから、今後の研究開発にもますます拍車がかかるものと考えられる」との総括がなされるなど、これからの重水素有効活用研究が注目を集めています。

以上、「重水素ってなんだ」と題して、3回に渡り(第1話第2話)安定同位体の代表格でもある「重水素」の起源や所在から産業や科学への応用について解説してまいりました。特にこの分野の研究や産業応用については、まだまだこれからです。例えば、重水素三重水素の原子核を融合させてヘリウムと中性子を作る核融合反応では大きなエネルギーが放出されるため、わずか合計1グラムの重水素と三重水素の混合物から、石油に換算して約8トン分のエネルギーを得ることができるので、二酸化炭素フリーの未来エネルギーとして期待されています(文部科学省ホームページ)。夢があると思いませんか?さらに広範囲での展開が期待されます。

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