450年前、信長はついに岐阜へ入りました 2017/4/21

瑞龍寺山から北、尾根続きに岐阜城が見える

いよいよ今から450年前、1567年(永禄10年)に稲葉山城(井口山城・今の岐阜城)が落ちます。信長は満33歳でした。そのきっかけは力攻めではなくやはり調略によるもの。

この年の夏、道三時代からの斎藤家の家臣であった美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)と呼ばれる西美濃の国人衆が斎藤龍興を見限り、信長につくことを申し出てきたようで、さっそく人質の請け取りに村井民部丞貞勝と島田所之助秀順の二人が西美濃へ派遣されました。

ところが信長はその人質が尾張に到着する前に突然出陣し、稲葉山城の山続きの瑞龍寺山に駆け上って井口の町を見下ろしながら、片っ端から火をかけさせました。龍興側は「一体何事だ、敵か味方かと」と騒いでいるばかり。大風が吹いて町が焼け、稲葉山城は裸城となってしまいました。

信長は翌日、とるものもとりあえず城に入って籠城した龍興側を干しあげるべく、城の四方に二重三重に柵(鹿垣)を作って閉じ込めてしまいました。

瑞龍寺の奥に見えるのが瑞龍寺山

信長に寝返った美濃三人衆も軍勢を率いてやってきましたが、すでに全ては終わったあとで、その迅速な動きを驚き、さすが信長と肝をつぶして挨拶をしました。その後結局8月15日に、龍興は稲葉山を出て、長良川を船で下って落ちていき、一向宗の巣窟である長島へ入りました。

これによって信長はついに美濃を手に入れ、上洛への道を確保したのです。そして小牧山城から稲葉山城へ本拠を移すことにし、美濃国に一通り支配者としての触れを出したあと、井口を改名して岐阜と命名しました。

これが信長公記に書かれた岐阜入りの話です。大筋はこういうことだったのでしょう。ただ、いくつかの疑問もあります。まず龍興が逃げたのは信長の公認だったのかということ。鹿垣で囲ったのになぜ逃げられたのでしょうか。

また、最近の研究では8月15日ではなく、9月15日だったのでは、というものもあります。そして岐阜と命名したのは本当に信長だったのか、ということにも最近いろいろな話が出てきています。これらは次回以降にまたご紹介しましょう。

瑞龍寺は修行道場に付き拝観禁止

で、この時の信長の動きですが、駆け上ったという瑞龍寺山はどこでしょうか。これは今もある瑞龍寺(ずいりょうじ・岐阜市寺町19)の裏山のことですね。稲葉山(今の金華山)が北西の端でそこから峰続きの南西端が瑞龍寺山となります。標高158m、登れば南から西に濃尾平野が一望できます。

山頂には弥生時代後期(2世紀)の墓があり、人為的に割られた青銅鏡が発見されていますから、そんな時代からここは権力者にとっては特別な眺望の場所だったのでしょう。

尾張方面の眺望。真ん中が名古屋駅ビル群
火をつけた井口(岐阜市)は眼下に見える

瑞龍寺(岐阜県岐阜市寺町19)は信長が美濃に入る約100年前の1468年に、守護を越えるほどの実力者となった斎藤妙椿(道三と血縁はありません)が守護の土岐成頼の菩提寺として建立した寺。妙椿も葬られています。信長が井口に火を放った時に焼失し、その後も何度か燃えています。

現在は禅の修行寺のため、残念ながら入ることはできません。瑞龍寺山に登るのはこの寺の西、柏森公園から石畳の道を上がっていきます。30分ほどで大きな展望台(岐阜市上加納山)へ着きますが、ここから濃尾平野の絶景が望めます。

山頂部にあった案内図

信長も稲葉山城に入る前に、まずはこの絶景を見たのでしょう。信長は尾張や美濃を見通せる、小牧山城よりさらに素晴らしいこの眺望に魅せられて、小牧山からの移転を決めたのかもしれませんね。

なお、ここはクルマでも登ることができます。瑞龍寺より2キロほど東の岩戸公園(岐阜市長森岩戸)から金華山ドライブウェイに入るとその終点がこの展望台になります。ただ、信長気分を味わうならやはり徒歩で駆け上がってみてください。

信長ドライブにおすすめのクルマ

トヨタ プリウスPHV Aプレミアム

プリウスの後部を改造し、大きな電池を積んで、実走で30キロほどは完全にモーターだけで走れるようにしたのがこのクルマです。その滑らかで力強い走りはさすが電気自動車というところ。急速充電器なら15分ほどで充電可能で、もちろん電池が無くなっても普通のハイブリッド車として乗れますから、遠出も安心。フル充電からハイブリッドに切り替わって、急速充電してまた電気になって、といったトータル約370kmの試乗燃費は27.2km/Lでした。(1.8L直4 プラグインハイブリッド・422万2800円)

PR情報

記事一覧

小牧山城を破壊したのは家康、かもしれないと思えた発掘調査報告会

先日、2017年2月4日と2月11日に、岐阜城信長居館と小牧山城で、年に一度の発掘調査現地報告会がありましたので、今回はそのご紹介です。何といっても小牧山城で…

2017/2/17

美濃以外からの上洛の道を確保しようとしたのか、北伊勢を攻める

450年前の1567(永禄10)年に岐阜に入った信長のことを、多くの人は強くて、破格にスゴイ人というイメージでとらえていると思いますが、実際は一年前の1566(永…

2017/2/4

河野島で負けて、義昭に一旦は見限られた上洛前の信長

年が明けて、いよいよ信長が美濃に入って450年となる年がやって来ました。1567年に満33歳の信長は初めて尾張ではない他国を占領するわけですが、ここではその前…

2017/1/17

信長攻路でもタブレットコンテンツを作ってもらいたい、と熱望します

名古屋市、というか、河村名古屋市長が推し進める「信長攻路〜桶狭間の戦い人生大逆転街道〜」という観光街道整備事業ですが、これまでこの連載で何度かご紹介…

2016/12/31

新加納の戦いー信長軍は小牧山城を出て木曽川を渡り各務原へ侵攻

足利義昭の和平工作で、美濃との休戦を成立させ、義昭に随行して上洛したかった1566(永禄9)年の信長ですが、若い龍興には情勢が読めなかったのか、なかなか和…

2016/12/11

信長は美濃攻略などどうでもよくなり、まず天下(畿内)を優先することに

信長が稲葉山城(後の岐阜城)を攻略したのは1567年のことです。いよいよ来年は450周年になり、岐阜市ではいろいろと企画が考えられています。 そんな中、以前…

2016/11/25

桶狭間への道「信長攻路〜桶狭間の戦い 人生大逆転街道〜 NOBUNAGA's VICTORY ROAD」名古屋市が設定へ

逆境の中、清洲から桶狭間へ戦いに向かう信長は、河村名古屋市長にとっては「人生大逆転」の師匠のようで、その思い入れは並々ならず、この連載でもご紹介した…

2016/10/21

小牧山城がなぜ火車輪城と書かれたのかを考えてみました

瀬戸市の古刹・定光寺に年代記という寺の歴史を書き留めた書物がありますが、ここには信長時代のことも少し書かれています。1563年(永禄6年)2月には火車輪城の…

2016/10/12

信長の美濃攻め、後半部分の年表です

前回に引き続き、信長の美濃攻め年表後半部分です。 信長は小牧山城を作り、犬山、美濃攻略を一気に進めたと考える人が多いようですが、実は美濃攻略が第一義…

2016/10/4

信長の美濃攻め、まとめ年表を作ってみました

この連載で書いてきた桶狭間の戦い以降、信長の美濃攻めのお話ですが、いよいよ稲葉山城(後の岐阜城)を攻略する直前まで来ています。 それは1567年のことで…

2016/9/14

プロフィール

15

達人に質問をする

自動車&歴史ライター

1956年 名古屋市守山区(当時は守山市)生まれ。バンド活動から自動車雑誌、タウン雑誌などの編集を経て、出版編集・web制作を生業とする株式会社デイズを創業。

代表を務めつつ、自動車ライターとして、中日スポーツなどで試乗記を10数年間、毎週執筆。現在は「モーターデイズ」というwebサイトを中心に活動中。

今年5月には、長年の取材をまとめた「信長公記で追う桶狭間への道」を出版。織田信長誕生から桶狭間の合戦までの26年の人生、その年齢ごとのゆかりの地をクルマでたどる歴史観光ガイドムック(雑誌タイプの本)で、歴史ライターとしても活動を始めた。

ピックアップ

  • リポビタンD 中日ドラゴンズボトル50本が当たる!
  • 会員登録
  • ログイン
今日の天気(11:00発表)
名古屋
晴れ時々曇り
34 ℃/--
東京
曇りのち雨
32 ℃/--
大阪
晴れ時々曇り
35 ℃/--
  • 東名, 名神, 東名阪道で渋滞情報あり。
  • 登録路線が未設定です。

スポーツ速報

試合速報・結果

公式戦 8/19 一覧 /

チーム名 スコア チーム名
中日
1(8回表)7 阪神
巨人
2(7回表)1 DeNA
広島
0(試合前)0 ヤクルト
オリックス
3(6回表)3 ロッテ
日本ハム
0(7回表)2 西武
楽天
0(試合前)0 ソフトバンク

共同通信社提供

  • 公式 Twitter はこちら
  • 公式 Facebook はこちら
東京新聞 電子版
中日販売サポート
東海テレビ 庄野アナと 新聞を音読してみよう!
平和の俳句 作品募集中
中日防災ナビ
こどもウイークリーのこーなー
過去の企画・特集