終戦記念特集

あの記事から68年 戦争を生きた人

 中日新聞の前身の中部日本新聞には戦時中も地方版があり、紙も人手も乏しい中、各地の地域ニュースをほぼ毎日報じていた。それは当時の全国の新聞と同様に戦争ムードをあおるものだったが、空襲の直後に露天でたくましく営業を再開した理髪店など人々の生活を刻むものでもあった。

 1945(昭和20)年8月の岐阜版に登場した人を探し、戦時中と終戦直後の苦しい暮らしぶりを振り返る。

1945年8月3日付岐阜版

神鷲に続かん 兄弟組次々と合格

 戦争末期、海軍飛行志願兵の試験に若い兄弟がそろって合格することが多かったことを伝える記事に、白川村の大塚正夫さんと弟貞夫さんの名前がある。正夫さんは終戦から3年後に19歳で亡くなり、貞夫さんも8年前に他界した。同じ試験では、同じ村の別の大塚正夫さんも合格していた。戦争に行きたくなくて答案を白紙で出したもう1人の正夫さんは、高山市の試験会場で教官の点呼に2人同時に返事をしたことをはっきりと覚えている。

  • 紙面の画像
    岐阜版
  • 紙面の画像
    1面

1945年8月5日付岐阜版

突貫床屋

 7月9日の岐阜空襲で焼け野原となった岐阜中心部。「つつみ理髪店」は焼け残った2脚の椅子を置き、空襲から1週間後には営業を再開した。見習いだった看板娘は、理髪を教えてくれた師匠とその家族とともに疎開先から毎日店に通った。真夏の空の下で、金づちを手にバラックの組み立てを手伝い、防空壕に入れて守り抜いたバリカンで客の頭を丸刈りにする日が続いた。店は今も同じ場所で営業を続けている。孫がハサミを握るのを、かつての看板娘が見守りながら。

焦土に自慢の山車

 7月29日未明、大垣市は米軍の空襲に見舞われた。市内の魚屋町地区に火の手が迫った時、江戸時代から伝わる高さ5メートルの祭りの山車を男たちが蔵から引っ張り出した。「俺らの山車は無事だぞ」。焦土の中に、住民たちのほっとしたような笑顔が広がったという。男たちは既に全員が亡くなったが、命をかけて救った山車の存在は、今でも地域の誇りとなっている。

  • 紙面の画像
    岐阜版
  • 紙面の画像
    1面

1945年8月14日付岐阜版

戦災学童の手記

 終戦前日、岐阜市の金華国民学校に通う児童6人の手記が紙面に載った。空襲で家が焼けた悔しさを書いた子、校庭でのサツマイモやカボチャの栽培に力を入れると誓った子。「みんな一致して戦い抜く」とつづった子もいた。だが、翌日、彼らにとっては突然の終戦を迎えることになる。当時の国民学校の様子を、かつての児童たちに振り返ってもらった。

  • 紙面の画像
    岐阜版
  • 紙面の画像
    1面

1945年8月15日付1面

番外編 新聞配達の子供たち

 激しい戦争が終わった直後も、新聞はほぼ毎日発行された。戦地から戻らぬ大人も多かったため、活躍したのは子供たち。岐阜市鏡島の新聞販売店では、出征した店主の代わりに幼い3人のきょうだいが新聞を配った。

  • 紙面の画像
    1面
  • 会員登録
  • ログイン
今日の天気(22:00発表)
名古屋
曇り時々晴れ
6 ℃/1 ℃
東京
晴れ後時々曇り
9 ℃/1 ℃
大阪
曇り時々晴れ
7 ℃/2 ℃
  • 東名で渋滞情報あり。
  • 登録路線が未設定です。
  • 公式 Twitter はこちら
  • 公式 Facebook はこちら
クラウドファンディング 夢チューブ 中日新聞
東京新聞 電子版
中日販売サポート
東海テレビ 庄野アナと 新聞を音読してみよう!
平和の俳句
中日防災ナビ
こどもウイークリーのこーなー
過去の企画・特集